報告
特定非営利活動法人 警備人材育成センター理事長 松浦晃一郎
同理事 篠塚隆
1975 年のサイゴン陥落を知る者にとっては「デジャビュ」とも言うべき 2021 年 8 月のタリバーン勢力によるカブール制圧は、アフガニスタンの歴史の大きな転換点となる出来事でした。以後 3 年近くが経ちますが、その間、多くのアフガニスタンの方々が祖国を離れて世界中に移って行かれました。その一部は日本に避難されることとなり(2022 年末時点で「特定活動」を有して日本国内に滞在しているアフガニスタン出身者は 329 人)、2022 年には 147 人、2023 年には 237 人のアフガニスタン出身の方々が難民として認定されました。この認定人数は日本としては画期的であり、外務省をはじめ関係者の尽力によるものですが、認定後もアフガン難民の方々の日本での生活は決して容易なものではありません。 特定非営利活動法人警備人材育成センターは、自主防犯活動をより活発にし、地域の安全、安心を支えるための地域の人材育成を目的に、2013 年に設立された NPO 法人で、国家公安委員会の登録講習機関として活動していますが、設立 10 年を機に、ささやかながらアフガン難民支援を継続的に行っていくことといたしました。当センターの支援活動をご紹介するとともに、アフガニスタンと日本との友好の絆を振り返り、古い友人の国から難民として日本に来られた方々とどう向き合うかにつき考えてみたいと思います。
アフガニスタンでは 1979 年のソ連(当時)の侵攻によって内戦が勃発し、ソ連軍の撤退後も内戦、タリバーン政権の成立と苦難の歴史が続きました。2001 年に米英主導の軍事行動によりタリバーン政権が崩壊して 2002 年に民主政権が成立しましたが、結局 2021 年には再びタリバーンがカブールを制圧することとなりました。ただそのような状況になる前のアフガニスタンは、1919 年の独立以来 1973 年までの革命までは王制で、特に 1933 年に即位されたモハメッド・ザヒール・シャー国王の 40 年間の治世の下では開発・近代化のための努力が行われました。日本との間では 1930 年に修好条約が署名され、1930 年代に東京とカブールにそれぞれ公使館(後に大使館に昇格)が開設されました。1970 年の大阪万博の時にもアフガニスタンは参加し、アフガニスタン館では同国の歴史・文化・風物等が紹介されています。
皇室とアフガニスタン王室との関係も良好で、1971 年には皇太子同妃両殿下(当時。現在の上皇上皇后両陛下)が昭和天皇のご名代としてアフガニスタンをご訪問になられ、1969 年にはモハメッド・ザヒール・シャー国王同妃両陛下が国賓として来日されています。皇太子妃殿下(現在の上皇后陛下)は 1971 年のご訪問を「バーミヤンの月ほのあかく石仏 (せきぶつ)は御貌(みかほ)削がれて立ち給ひけり」というお歌に詠まれました。天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)がアフガニスタンのことを詠まれた御製(おおみうた)・御歌(みうた)としては、2001 年のバーミヤンの仏像破壊を詠まれた皇后陛下(当時)の御歌「知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミヤンの野にみ佛在(いま)さず」、同年の内戦終結を詠まれた天皇陛下(当時)の御製「カーブルの戦(いくさ)終りて人々の街ゆくすがた喜びに満つ」、翌 2002 年の皇后陛下(当時)の御歌「カブールの数なき木木も芽吹きゐむをみなは靑きブルカを上ぐる」もあります。天皇陛下(現在の上皇陛下)とカルザイ大統領との御会見は、2003 年、2006 年、2010 年、2012 年の 4 回行われており、またガーニ大統領は今上陛下の即位礼に出席されています。
松浦は1965年に経済界の中近東経済使節団に随行してアフガニスタンを訪問しましたが、その時にはアフガニスタンが近代化と戦後復興を成功裏に行った日本に強い親近感と敬意、そして期待を抱いていることを実感しました。その際会見したアフガニスタン側要人のうち、日本語を流ちょうに話されるヤフタリ蔵相は戦前の日本に 7 年間留学され、帝国大学も卒業されたとのことでした。こうしたこともあって 1970 年代に外務省経済協力局に勤務していた時には、アフガニスタンに対する無償資金援助と技術協力を行うようにしました。その後アフガニスタンは長い内戦の時代が続いたため、同国と関わることはほとんどできませんでした。ユネスコ事務局長時代の 2001 年には、タリバーン政権がバーミヤンの仏像を破壊しようとした時、これを止めようと努力しましたが、残念ながら成功しませんでした。それだけに政権交代後の 2002 年にジャムのミナレットと周辺の遺跡群、そして 2003 年にバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の 2 件がアフガニスタンの世界遺産として登録された時は、仏像の姿はもはやありませんでしたが、感慨深いものがありました。ユネスコ事務局長として初めてアフガニスタンを訪問した時、空港から首都に向かう道沿いに破壊された軍用車両が放置されているのを見たこともよく覚えています。
警備人材育成センターがアフガン難民支援を行うこととなったきっかけはアフガニスタンのことをフォローされている国際開発ジャーナルの竹内幸史編集委員(朝日新聞のニューデリー特派員時代の 2001 年にアフガニスタンに取材に入られて以来の由)がアフガン難民支援を行っている特定非営利活動法人イーグル・アフガン復興協会の江藤セデカ理事長(アフガニスタンご出身。日本国籍)を紹介されたことです。日本大使館や JICA に勤めていたインテリの方を含むアフガン難民がご家族(アフガニスタンではお子さんの数が多い大家族が中心のようです)とともに日本で苦労されているということを聞いて、センターでは今後毎月 10 万円の生活支援金を同協会を通じて贈呈することとし、以下の通り贈呈式が行われました。
第一回目の贈呈式は松浦が特別顧問を務める株式会社パソナグループ本社で昨年 10 月 4 日に行われ、松浦から江藤理事長に昨年 4 月から 9 月まで計 60 万円分の支援金の目録をお渡ししたところ、江藤理事長からは是非活用したいとのお礼の言葉がありました。当日は難民代表として元 JICA カブール事務所勤務の K さんが奥様と 2 人のお子さん同伴で贈呈式に出席され、英語で挨拶をされました。
また、第二回目の贈呈式は 3 月 27 日、新宿区所在のハリーロード社(江藤理事長が営まれる絨毯等の貿易会社)で行われました。当日は難民代表として、M さんと 5 人のお子さんが出席されました。M さんのご主人はカブールの日本大使館で勤務され、日本では一時期生活保護を受給されていました。2 カ月前に配管工の仕事を見つけられましたが、都内の勤務で帰宅時間が遅いそうです。現在28歳のMさんは内戦中に生まれて12歳で結婚され、小学校の途中までしか学んでおられませんが、日本語を勉強しつつパートとして勤務されているとのことで、贈呈式もすべて日本語で行われました。松浦から江藤理事長に昨年 10 月から本年 3 月までの支援金 60 万円の目録をお渡ししたところ、江藤理事長から、前回の金額は自分が管理し、本当に困っている家庭を助けたりするのに活用したということで謝意の表明がありました。駐日 UNHCR 事務所からも事務所法務部の葛西首席法務アシスタントが出席され、UNHCR としては直接の支援はあまり行っていないが紹介や情報の伝達を通じて難民の皆さんが夢に向かって進めるよう応援したい旨挨拶をされました。
なお、江藤理事長からは、日本政府が前回に引き続き 237 人を難民認定してくれたこと自体は画期的であるがそこから先はすべて自力でやらなくてはならない、月収 15 万円程度で家賃と光熱費と国民健康保険の保険料を払うと本当に苦しい等々のアフガン難民の現状に関するお話がありました。アフガニスタンのような古くからの日本の友好国で、しかも日本のために働いていた方々のためにもう少し何かできないだろうかと思うと本当に胸が痛みましたが、K 家、M 家のお子さんたちの達者な日本語と元気な笑顔、そして M さんの「勉強したい」というポジティブな姿勢が救いでした。
アフガニスタンには日本人を惹きつけ、この国の力になりたいと思わせるものがあるようで、現地で多大な貢献をされた故中村哲先生の例などもありますが、日本でもアフガン難民を支援しようという善意の輪はそれなりに広がってはいます。例えば、イーグル・アフガン協会と千葉明徳学園とのご縁により、週末に同学園の空き教室を使ったアフガン難民女性向けの日本語教室(イーグル・アフガン明徳カレッジ)が開校(授業・お子さんの保育ともボランティアが運営)して(約 100 人が登録して毎週約 30 人が出席)、配偶者の外出にあまり積極的でないアフガン人男性も、子連れ可、女性のみの企画ならということで女性方の参加を認めてくれているという話もありました。因みに千葉県は難民を含めたアフガン人の数が多い(在日 5378 人のうち約 4 割が千葉県居住。うち 1100 人が四街道市)そうです。また、自治体が公共料金の面で配慮してくれる事例もあります。ただ、現在の日本社会で遠く祖国を離れた難民の方々が生活していくのはやはり大変で、個別の自治体や団体・個人の努力でできることには限界があると言わざるを得ません。言うのは簡単かもしれませんが、政府・自治体・善意の団体や個人、さらには UNHCR 等の国際機関も有機的に連携してアフガン難民をはじめ難民のために何ができるかを考えるべきではないでしょうか。欧米の国には、難民を包摂し、自国の活力源としている例が多数あります。アフガン難民の方々によりよい未来が開かれ、それが少子化・高齢化の道を歩む日本にとってもよい結果をもたらすよう心から祈念して本稿の結びとさせていただきたいと思います。
(「一般財団法人昭和経済研究所「アラブ調査室」ホームページ6月号に掲載(初出)」から。)
第二回贈呈式における目録の贈呈(2024 年 3 月 27 日)
松浦晃一郎
第 8 代ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)事務局長
1937 年生まれ。山口県出身。東京大学法学部を経て、外務省入省。米国ハヴァフォード大学経済学部卒。経済協力局長、北米局長、外務審議官(先進国サミットのシェルパ兼任)を経て駐仏大使、世界遺産委員会議長、アジア初のユネスコ事務局長(第 8 代)を務める。在任中は組織改革を断行し、米国の加盟復帰実現や、無形文化遺産保護条約の策定など多くの業績を残している。帰国後、立命館大学学術博士号を取得。現在はアフリカ協会会長、日仏会館名誉理事長、パリ日本文化会館運営審議会共同議長、群馬草津国際音楽協会代表理事、関西大学客員教授、株式会社パソナグループ特別顧問等を兼務。『世界遺産 ユネスコ事務局長は訴える』、『私の履歴書-アジアから初のユネスコ事務局長-』などの他、英語および仏語による著書多数。
篠塚隆
1956 年生まれ。兵庫県出身。東京大学法学部を経て、外務省入省。フランス国立行政学院(ENA)留学。内閣官房内閣参事官、宮内庁式部副長等を経て、在アトランタ総領事(米国)、在モロッコ大使を務める。現在はアフリカ協会特別研究員、日本・モロッコ協会副会長、ルネサンス・フランセーズ日本代表部名誉顧問等を兼務。著書(共著)『英国王室と日本人』。